邪馬台国
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邪馬台国を探す 1 [邪馬台国]

渓流釣りに没頭し九州脊梁を走り回っていた頃、高千穂のペンション経営者
と仲良く成りました。

ある日ペンションの経営者Kさんが、日隠川の源流に女郎墓群
が有って、「霊が写っている一枚の写真」を見せてくれました。

女郎達の鎮魂祭の時の記念写真で、祭壇の横に「そこには居なかった人」
の後ろ姿が、はっきりと写っていました。

案内を請いましたが、「そこへは行きたくない」とあっさり断られました。
更に、その墓の下流には大きな渕が有って、大きなヤマメがウジャウジャ
泳いで居るよ・・・・・と「聞き捨てならぬ情報」も提供されたのです。

この一帯は江戸時代から昭和44年まで、スズを掘った見立鉱山が
隆盛していました。

標高1,000メートルを越す場所ですが、多くの坑口が有り周辺には
多くの山棲み人達が住んでいたと思われます。

当然、代官屋敷跡や遊女屋敷跡等が点在し、墓石群や無縁墓群・
鉱山特有の炉跡などが有るそうです。

暫く日暮谷に「行くか? 止めるか?」迷いましたが「怖いもの見たさと尺ヤマメ欲しさ」
に行動開始!

日之影川を外れ、日隠川沿いに、荒れた山道を約1時間、ようやく視界が晴れ
山の尾根近くに辿り着きました。

「女郎墓群の看板」を見つけましたが、看板は空の方を向いており、
1度は通り過ぎてしまいました。

看板下のガレバを300メートル位下ると、原生林に包まれた枯れ沢に辿り着きました。
心の中では「怖いもの見たさの好奇心」が渦巻いて居ましたが、
祟られたら怖いので「ここで心を入れ替え」ました。

こんな「山奥まで連れて来られ、さぞかし苦しい思いをされた事でしょう。
皆様安らかに、お眠り下さい。」・・・・位の気持ちには成っていたと思います。

枯れ沢を遡行すると、薄暗い原生林に包まれた枯れ沢の左右の出っ張りに
「沢山の苔むした墓石」が並んで居ました。
名前や没月日の刻んで有る墓石・2~3才の子供の墓石など、言葉に成らない光景でした。

これを機に「宮崎県西臼杵郡高千穂町」に通う頻度が増し、邪馬台国探しが始まったのです。

                              

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「邪馬台国を探す」はこちらでまとめています。
タグ:邪馬台国

邪馬台国を探す 8 [邪馬台国]

先ずは「言葉の派生」は人体の部位から始まったとの
説を唱えられる、
「豊永武盛」著の 「あいうえおの考古学」 邪馬台国身体論
をお読みいただくと非常に解り易く、面白いですよ。


この本を元に、卑弥呼・倭・邪馬台国・そして私の比定する 阿蘇周辺から、高千穂にかけての大まかな意味する所を、 ご紹介してみたいと思います。

邪馬台国8 写真.JPG


参考    魏志倭人伝

       古事記現代語訳

「邪馬台国を探す」はこちらにまとめています。
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邪馬台国を探す 7 [邪馬台国]

魏志倭人伝による倭の女王「卑弥呼」は先に説明したように、 日本天皇系図のどこかに位置しなければならない人のはずです。

神話化されては居るものの、天皇系図は下図実線の流れをたどります。
卑弥呼が当然この流れのどこかに位置すべき人と考える時、邪馬台国
そして卑弥呼は、円内又破線の流れで考えるのが一番自然ではないでしょうか?
邪馬台国.jpg


つまり、出雲や南方(狗双國)系の男王が相攻伐した倭国に、卑弥呼と言う女王が 共立されました。

彼女は戦乱に乱れた世の中を、平和な国へと導きました。
彼女が民衆を救った功績は、恵みの太陽にも称えられ、後々神格化されて
「天照大神」と呼びなわされる様になったのではないでしょうか?

卑弥呼の死後、世の中は再び戦乱に包まれます。
得の無い戦いに嫌気のさした、部族の長達は、再び卑弥呼の血筋をひく、
わずか13歳の宗女壱与を天照大神の再来として共立します。

これが効を奏して、世の中は再び平和を取り戻します。
この一連の出来事が、後々「天岩戸神話」として語り継がれるように成ったのです。

二人の天照大神によって確立された王統を引き継ぐ、「神武天皇」が近畿大和へ
神武東遷し後大和朝廷を興すことに成るのです。

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邪馬台国を探す 6 [邪馬台国]

邪馬台国を探す 3 で双國(博多)から邪馬台国まで、187kmと書きましたが、
下図をご覧下さい。

邪馬台国地図写真.JPG

私の住んでいる双國(博多)から、私が邪馬台国と考える宮崎県高千穂町まで、
主要道を通ると、図のような方法が有ります。

大分県日田市経由で高千穂町河内(卑弥呼の墓と思われる古墳が有る場所)まで170km。
この古墳や横穴式石棺群がある地域は「奥鶴(津)台地」と呼ばれています。
「津」意味は港や「お別れの場所」・・・つまり「墓所」のいみが有ると思われます。

熊本市経由で河内まで136km、高千穂へ直行すれば154km。
御船経由で高千穂へ直行すれば198km。
松橋経由で高千穂へ直行すれば208kmです。

これは私の推定した、「双國(博多)から邪馬台国まで187km」にかなり近い数字だと思います。

こう反論される方もいらっしゃると思います・・・・・・昔の道と現在の道路は違うのではと。

これは九州道や都市高速を実際に走った距離です。
もちろん新しいトンネルや橋を利用した結果です。

しかし現在の道路は、「同じ方針を持って」作られた計画的道路であり、これを比率で割り出した
距離ですから、問題は無いと思います。

邪馬台国を探す 3 の地図を見て下さい。
伊都國と高千穂は、ほぼ「南北の関係」で魏志倭人伝の条件を無理なく全てを満たしていると思います。

高千穂は元々「知鋪の郷」と呼ばれ、阿蘇から日向一体をそう呼んでいたそうです。

 「邪馬台国を探す」はこちらにまとめています                                               




邪馬台国を探す5 [邪馬台国]

女王「卑弥呼」の統治下の日本国も、神武天皇で始まる日本国も、 正式の「倭(円くまとまっているの意か?)国」も、正式の国号は「倭国」 でした。

奈良時代に成って初めて「倭国は日本」と言う国号に改められました。
中国の史書は卑弥呼以外に「王統」の在ったことを告げておりません。

又、中国が大和朝廷以降の天皇と交渉を持った時も、これらの天皇が
卑弥呼の血を受けた王である事を疑っていないのです。

つまり卑弥呼は倭(日本)の女王で在り、日本国の天皇系譜のどこかに 位置するべき人なのです。

天照大神」は「卑弥呼」です。

下の図は「魏志倭人伝と古事記」の符号するところを、比較したものですが
「完全一致」と言っても良いのではないかと思っています。

邪馬台国写真2.jpg

神話「岩戸隠れ」には太陽の復活(冬至点の意味を含め)、一度死んだ天照大神が
生まれ変わった事を暗示し、死んだ女神は「卑弥呼」であり、復活した女王は
「宗女・壱与」なのです。

又、(住七八十年、倭国乱 相攻伐歴年の)くだりは、出雲系部族の侵略や
狗南双國・建須佐の男・・・・等との乱世だと考えられます。

余談ですが「岩と隠れ」の「」は「〇と★」などの、境目を意味します。
「戸」は部屋と部屋の間に在りますね。

ここでは「黄泉の国」と「この世」の間に在り、「生」と「死」を暗示した神話に成っているのだと思います。

「邪馬台国を探す」はこちらにまとめています。

邪馬台国を探す4 [邪馬台国]

九州地図.jpg 魏志倭人伝における邪馬台国を比定する必須条件と比定地


1.邪馬台国より北に在る国々については、人家の数や道程をあらまし把握できるが
 その他周囲の国々は遠く隔たっていて詳しく記する事が出来ない。

2.邪馬台国より北に在る国々対し、特別に「大率」とも呼ぶべき役人を置き、
 それは伊都国にある。・・・・邪馬台国と伊都国はおおよそ「南北」関係に、
 なければ成らないと言う大事な条件の一つと成ります。

3.女王「卑弥呼」の支配領域の南に狗奴國が在る。・・・・熊本・人吉・鹿児島

4.帯方郡から邪馬台国までの道理で推測すると、会稽・東治(現在の浙江省紹興市付近)
 の東の方に在る事になる。

5.邪馬台国の東には海路1,000里余りの所に、又倭種の国がある。・・・・四国
6.卑弥呼の墓は直径百余歩。奴婢の殉葬者は100人余りである。・・・・ 
 宮崎県高千穂町(河内地区「奥鶴台地」)



私の比定する邪馬台国はこの条件を無理なく全て満たしています!span> 約2,000年も昔の人々の記した「魏志倭人伝」は、想像をはるかに超えた正確な文献だと思います。方位計やメジャーを使わずに月と太陽だけを頼りに、よくもここまで正確に記録されたものだと、 関心しています。 邪馬台国「畿内説」をはじめ諸々説は、よくも「魏志倭人伝」を折り曲げ、 へし曲げ「邪馬台国改造論」を唱えられるものだと思います。 「日本列島改造論」をブチ上げた田中角栄元総理も、黄泉の国でビックリしているのでは ないでしょうか。 もっと素直に「魏志倭人伝」を読み返してみませんか? 「邪馬台国を探す」はこちらにまとめています。
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邪馬台国を探す 3 [邪馬台国]

里程標2.jpg



前回も書きましたが、倭人伝では大陸から倭の國を見下したような
立場が見て取れるようです。

まずは大陸から唾を吐いた位置に有るのが対馬國(長崎県対馬市)、
息を吹きかけた場所が一大國(長崎県壱岐市)、海路の最後が末盧國(佐賀県松浦郡)
伊都國(福岡県糸島市)・・・・世王有るも皆女王國に統属す・・・郡の使の往来し
て常に駐る所なり。・・・・女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。
伊都島は女王国の情報発信基地である「一大率」を置き、その国の名前は「意図する」
「糸で操る」ような意味が隠されて居る様な気がしませんか。

おまけですが、博多湾は(歯型)、その入り口にある能古の島(喉)、背景の山は「背振り山脈」
とすべて人間の体から派生た、名前や意味が感じ取られるはずです。
詳しくはあいうえおの考古学「あいうえおの考古学
―邪馬台国身体論―. 豊永武盛著」をご一読下さい。・・・結構面白いですよ。   

『本題』
邪馬台国論争で帯方郡から不弥國までの10,700里は余り問題の無い所です。
帯方郡から女王の都する所「邪馬台国」までが12,000余里ですから、不弥國から邪馬台国
までは1,300里と成ります。

呼子から博多(奴國)までが現在の道路状況で(約80キロメートル)・・・これが倭人伝では
(600里)ですから、当時の「一里は現在の135メートル」と成ります。

注・・・私の住んでいる「奴國」は福岡市中央区でここを中心に、行動していますので、
    不弥國から奴國までの約13.5キロメートルを差し引いて、「奴國」から「邪馬台国」
    までの距離は1,400里(現在の距離で187キロメートル)とさせて頂きます。

簡単に言えば博多から求めている邪馬台国は187キロの所に有ると言う事です。

「邪馬台国を探す」はこちらにまとめています。
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邪馬台国を探す 2  [邪馬台国]

邪馬台国を探す資料には、中国が「魏・呉・蜀」の三国に分かれて居た時代(三国時代)
に北部中国を制圧していた「魏」の国の正史『東夷伝倭人条』の2,000字余りの漢文と、
日本神話とされている『古事記』を照らし合わせ・・・・符号する場所や人物を特定していくしか有りません。

その前に豊永武盛の著作『あいうえおの考古学』を呼んでみて下さい。
日本の言葉は全て「人間の身体から派生して行った」と言う理論書です。

例えば

「甘い」の語源は「天(あま)」から「雨(あめ)」が降って来て、
その雨を「浴む(あむ)」と体がサッパリして気持ちが好くなります。
「甘い」は・・・気持ちが好くなる事を意味していると言うのです。

そう考えて「身体」の部位を連想していくと、「目・・・芽」、「鼻・・・花」
「口・・・(物の出入り)口」、「歯・・・刃や端・波」など全ての部位に・・・
隠された共通の意味が感じ取れます。

狗耶韓国(プサン周辺)から「唾」を吐いたような場所が「対馬國(対馬)」、
息を吹きかけた状態の場所「一大國(壱岐)」さらに、海路の末路が「末盧國(松浦半島)」
と命名されたように感じます。

倭の国の命令系統「一大率」が置かれたとされる「伊都國」は、(意図や糸)の様な意味が有りそうで、
各国を「束ねていた」「糸で操る」ような場所で有った事が読み取れます。

因みに倭の女王「卑弥呼」を一時ずつ、分解してみると、
卑(ひ)・・・一・日・陽・火・比・匙(さじ)・・・暗示される意味は派生する根源・単位・一番目
弥(み)・・・身・美・御・実・・・暗示される意味は(巫女・御子・皇女)等の敬称
呼(こ)・・・小・子・固・己・・・神に仕える未婚の女性

つまり「卑弥呼」とは(一・陽)(皇女・巫女)・・・・「最初の女王」のように読み取れるのです。              
                              
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邪馬台国を探す 1 [邪馬台国]

渓流釣りに没頭し九州脊梁を走り回っていた頃、高千穂のペンション経営者
と仲良く成りました。

ある日ペンションの経営者Kさんが、日隠川の源流に女郎墓群
が有って、「霊が写っている一枚の写真」を見せてくれました。

女郎達の鎮魂祭の時の記念写真で、祭壇の横に「そこには居なかった人」
の後ろ姿が、はっきりと写っていました。

案内を請いましたが、「そこへは行きたくない」とあっさり断られました。
更に、その墓の下流には大きな渕が有って、大きなヤマメがウジャウジャ
泳いで居るよ・・・・・と「聞き捨てならぬ情報」も提供されたのです。

この一帯は江戸時代から昭和44年まで、スズを掘った見立鉱山が
隆盛していました。

標高1,000メートルを越す場所ですが、多くの坑口が有り周辺には
多くの山棲み人達が住んでいたと思われます。

当然、代官屋敷跡や遊女屋敷跡等が点在し、墓石群や無縁墓群・
鉱山特有の炉跡などが有るそうです。

暫く日暮谷に「行くか? 止めるか?」迷いましたが「怖いもの見たさと尺ヤマメ欲しさ」
に行動開始!

日之影川を外れ、日隠川沿いに、荒れた山道を約1時間、ようやく視界が晴れ
山の尾根近くに辿り着きました。

「女郎墓群の看板」を見つけましたが、看板は空の方を向いており、
1度は通り過ぎてしまいました。

看板下のガレバを300メートル位下ると、原生林に包まれた枯れ沢に辿り着きました。
心の中では「怖いもの見たさの好奇心」が渦巻いて居ましたが、
祟られたら怖いので「ここで心を入れ替え」ました。

こんな「山奥まで連れて来られ、さぞかし苦しい思いをされた事でしょう。
皆様安らかに、お眠り下さい。」・・・・位の気持ちには成っていたと思います。

枯れ沢を遡行すると、薄暗い原生林に包まれた枯れ沢の左右の出っ張りに
「沢山の苔むした墓石」が並んで居ました。
名前や没月日の刻んで有る墓石・2~3才の子供の墓石など、言葉に成らない光景でした。

これを機に「宮崎県西臼杵郡高千穂町」に通う頻度が増し、邪馬台国探しが始まったのです。

                                続く



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